部屋の真ん中に二組の布団と蚊帳が置かれているのを見て、土方は眉をひそめた。
「今日から蚊帳を張るので、同じ部屋で寝てもらいます」
道場で子供たちに教えるみたいに近藤が告げる。
「異議は認めないからなー」
突っ立ったままの土方の周りであれよあれよと布団が敷かれ、蚊帳が張られていく。
「よし、じゃ、寝るか!」
一仕事終えた近藤は晴れ晴れとした表情で、不服そうなままの土方を強引に蚊帳の中へと引きずり込んだ。
暗い天井にぼんやりと蚊帳の薄い幕が浮かんでいる。部屋の中に作られた狭い空間はどこか秘めやかな雰囲気をもたらす。
「去年、蚊帳出したときになぁ……総悟が泊まってなぁ……蛍捕まえてきて放したんだ、蚊帳ん中に」
とつとつと言葉を紡ぐ近藤の声が、夜のしじまに浮かんでは消え、消えては浮かんでいく。日中の快活な物言いとは違いゆっくりと落ち着いた声音が耳に心地よい。時折戸口から吹き込む風が、むっとする熱気をいくらか和らげる。蚊取り線香の匂いが漂う。
「無数の小さな光が点いたり消えたり動いたりしててなぁ……蛍同士が会話してるみたいで……なんか弱い信号で一生懸命繋がろうとしてるみたいでいじらしくてよぉ……綺麗だったなぁ」
相変わらず相槌の一つも打たず、聞いているかも分からない土方に近藤は喋り続けた。たんに喋りたいだけで土方が聞いてようがいまいが関係ないのかもしれない。まどろんでいるのか声に眠気が混じっている。
「次の朝死んでる蛍見て総悟がなぁ……“なんで蛍すぐ死んでしまうん”て泣いてな……そうごは優しい子だからぁ……」
ウトウトと夢見心地に近藤の声が聞こえなくなる。眠ったのだろう。土方も目を閉じるが、眠れない。寝返りをうって近藤に背を向けた。この心地よさが寝苦しい。昼間の騒々しさが嘘のように夏の夜は静まり返っている。
「……なぁ」
寝たと思っていた近藤が口を開いた。
「なぁ、うちの門弟にならないか?」
ドキッと心臓が大きく脈打った。心地よさが緊張感へと急変する。
「我流で剣やろうにも限界があるだろ?いてくれたら総悟も張り合いが出るだろうし。……それに──」
背中越しに聞こえる言葉が途切れた。
「俺がトシにいてほしい」
再び心臓が大きく脈打った。心音が漏れ聞こえぬようぐっと押さえ込む。当然答えられることもできず、近藤が寝るのを息を殺して待った。背中の神経がチリチリと痛む。
しばらくして近藤は「……寝てるよな」と小声で呟くと、自身も眠りに落ちていったようだった。それでも土方は、寝息からイビキが聞こえるようになるまで身じろぎひとつ出来ず張り詰めた神経で背後の気配を探り続けていた。
近藤を起こさぬよう土方は慎重に蚊帳から抜け出した。一歩踏み出すたびに軋む畳の音がやけに大きく聞こえる。響く床音に神経を尖らせながら外へと出た。夜明けには未だ遠いが満天の星と満ちた月で夜にしては明るい。そこかしこから様々な虫の音が競うように聞こえてくる。土方は歩き始めた。
近藤邸の敷地を抜け、緩やかな傾斜を上っていく。歩くたびに腐葉土が小さな音を立てて沈み込む。木々がさざめきアオバズクの鳴き声が短く二度聞こえた。あれがアオバズクだと言っていたのは近藤だった。伸びた枝葉が空を覆い月明かりが届かなくなる。傾斜がきつくなり、息が上がり始める。足取りは重い。
馴れ合いは好かない。しがらみは疎ましい。近藤邸で介抱されたあの日から、一日も早くここから出て行こうと、思わない日はなかった。動けるようになった、とそればかりを考えていた。考えていたのに、と土方は口元を歪める。傷などとうに治っている。風の匂いを感じ、鳥の名前を知り、花の姿を覚え、飯の味に気付き、空は刻々と変わっていく。無彩色だった景色に色がついていくこの感覚は土方を戸惑わせた。花が咲いたと足を止め、季節の移ろいに心動かされてみるつもりか。柄でもない。
暗闇で足を取られないよう足元ばかり見ていた目の前に、ふと小さな明かりが灯り横切っていった。自然とその明かりを目で追い顔を上げた。
川のせせらぎが聞こえる。雑木林が途切れ、草はらが広がる。草地の中の細い獣道の先には板を渡しただけの簡素な橋があり、その川べりでか細い明かりがひとつだけ点いたり消えたりを繰り返していた。
このまま立ち去ってしまえば煩わしさから解放される。わざわざ捜しはしないだろうし、仮に追ってきたところで土方の行き先をつかむことは無理だろう。行け、と煽る。さっさと行け、それが望みだろ。しかし何度けしかけたところで土方は踏み出せなかった。蘇る近藤の言葉が土方の足を竦ませた。
夜の川辺にひとつぽつんと灯る蛍は群生する草先を照らす。誰にも伝える相手のいない光は弱々しく哀れで痛ましい。それでもあの男は綺麗だと言うのだろう。
パチン、と甲高い音が響く。飛び交う耳障りな羽音に土方はうんざりと振り払った。季節感なんてなくなって久しいが、蚊の出現にこんな時季かと縁側を歩きながら庭へ目を向けた。気付けば洗いざらしの髪が乾くのも随分早くなった。ビルや店舗の照明で照らされた夜の庭に見えない蛍の影を追っていた。武州のほうも開発の手が加わり大分様変わりしているらしい。ましてや都心のこんなところに現れるはずもない。蛍が見られる場所などもう随分と限られしまう。
近藤の自室の障子戸を開け、やはりと小さく溜め息を吐いた。風呂上りに夕涼みがてら一服をしていた最中にふと思い起こして近藤の部屋を覗いてみたのだが、土方が案じてたとおり部屋の真ん中で隊服のまま寝転ぶ近藤の姿があった。うたた寝だとしてもなまじ電気が消えてる分タチが悪い。くわえ煙草のまま部屋に入る。寝ている近藤を起こそうと顔を覗き込んだ瞬間、寝ていると思った近藤と目が合った。合った目が微笑むように細くなる。
「寝るなら着替えて布団で寝ろよ。それじゃ疲れるだけだろ」
伸びてきた近藤の腕が襟足に触れた。動いた首筋の空気の暑さに、夏だなと土方は思う。
─終─