寒かった教室内も、がんがんと効かせた暖房の熱で、随分と暖まってきている。それに伴い退屈な授業の弊害に心地よい睡魔が頭をもたげ始めた。今日は天気がいい。
窓から差し込む弱々しい陽の光を感じながら沖田が睡魔に抗うこともせず、ゆるゆると瞬きを繰り返していると、ぼやけた視界に横から何者かの手が伸びてきた。そのまま手の行方を眺めていると、その手が沖田の机の隅にあった消しゴムを摘み上げた。
「悪ィ、消しゴム貸して」
横を見ると先日の席替えで隣になった近藤が消しゴムを摘み上げていた。沖田は指先の消しゴムを一瞥し、あーぁと呟く。
「せっかく、おまじないしてたのに」
昔そんなのあったなぁとぼんやり考えながら沖田の口は喋る。小学生の頃、それでクラスの女子にきゃあきゃあ騒がれたことを思い出した。
「ケースで隠れるように好きな人の名前を書いて、好きな人にその消しゴムを触られことなく使いきれたら想いが通じるってやつでさァ」
“好きな人に”じゃなかった気がするが、まぁいいか。近藤は訳が解らずきょとんとした表情を浮かべている。
「だけどそれ無駄になっちまった」
近藤の顔を見ながら眼を細めた。みるみる赤み差していく。耳まで赤くなったところで勢いよく消しゴムを沖田の机の上に戻した。
「あっ、あぁ、あ、すまん!」
近藤の声は授業をしている教室には少しばかり不釣合いだった。教室中の無言の視線が集まる。教壇の坂田が煙草を咥えた口元を斜めにし、近藤と、その隣の沖田を眺めると
「騒ぐんだったら寝てろ」と面倒くさそうに言い捨てた。直ぐに授業は再開される。まだ何人かは何事かと二人を窺っているが、教室の空気はあっという間に元に戻っていた。
「近藤さん」
しどもどと散々視線をさ迷わせた挙句、耳を赤くしたまま黒板に向かっている横顔に呼びかける。
「消しゴム要るんでしょう」
「お、おぅ。いいのか?」
「いいもなにも今更」
授業の妨げにならない声を潜めて、消しゴムを握らせた。無骨な手がそれを受け取る。掌の消しゴムをまじまじと見つめていた近藤が、気恥ずかしそうに口を開いた。
「なぁ、あの、さっきの話しマジ?」
相変わらず頬が赤らんでいる。その様をなにも答えずに眺めている沖田に業を煮やしたのか、不満そうに口を尖らせ、持っていた消しゴムのケースを引き抜いた。「あ」と沖田は内心呟く。何も書かれていない消しゴムの白肌に近藤の手が止まっていた。裏返しても消しゴムは白い。「あーぁ」と小さく肩を竦めた。ばれてしまった。
「書いてねェじゃん!」
「当たり前でさァ。ほっとしました?」
「なっ、嘘かよォォ!馬鹿みてェじゃん、俺!!凄ぇ恥ずかしいんだけど……」
冗談だと気付いた途端、近藤は頭を抱えた。こんなに信じるとは正直意外で、沖田は驚いていた。
「こんなんしてる男がいたらキモイだけだろィ」
「そんなとこすら可愛いと思ってたのに」
近藤が恨めしそうに顔を上げる。ああ、ちょっと待て。何を言ってるんだ、この男は。近藤は何事か閃いた様子でごそごそ始めているが、沖田としてはそれどころではない。「可愛い」?
動揺が隠せずにいると不意に、目の前に近藤の手が突き出された。
「大丈夫、もう触らねェから」
強引に渡された消しゴムにはボールペンで書かれたばかでかい「近」の文字が覗き見えている。ケースの下に何があるか察するに余りある。
「これをどうしろって言うんですかぃ」
努めて冷静に、やや呆れ気味に言ってみるが、顔が熱い。
「叶うといいな」
叶ってもいいのかよ!屈託なく笑う近藤を直視することも出来ない。顔を背ける沖田を覗き込もうと身を乗り出してきた。
「照れてる?照れてる?」
「……偉い迷惑」
逃げるように身を引く。何故自分のほうがこんなに動揺しているのだろう。こんなこと本気で相手にすること自体馬鹿げてる。沖田がしたこともくだらない冗談で、近藤が仕返してきたことも他愛もないいたずらなのに。
「やっぱお前可愛いな」
当惑する沖田を覗きながら近藤は一層破顔させた。臆面もなくさらっと言ってしまう無邪気さが、全て本気なのではと沖田に思わせるのだ。
可愛いのはあんたのほうだと、嬉しそうな近藤の顔を沖田は精一杯睨みつけた。
─終─