襖に手を掛けながら「お前らは料理くらい食ってけ」と松平が言った。部屋を後にする松平を見送り、近藤は安堵の息をつく。高級料亭の一室に呼び出され何事かと思っていた近藤と土方は、つつがなく終わったことにホッとしていた。というより拍子抜けしていた。
「娘の彼氏探らせるために、わざわざこんなとこ呼び出すなよなぁ……」
前髪をかきあげながら土方がぼやいた。それでもその問題の彼氏が自分ということになっていないか、多少は気掛かりであるらしい。
「ま、でも良かったよな、なんでもなくて」
松平が頼んだのだろう。人払いさせていた部屋に料理の載った膳が運ばれてくる。それに伴い、隣り合わせだった土方が向かい合うよう座りなおす。
「料亭で会談だなんつぅから絶対いかがわしい話だと思ったよな。札束の詰まったアタッシュケースだとか。愛人のお古あてがわれたりとか。『こいつよろしく頼むわァ』『お前ら真選組残したいよなァ?』みたいな?まぁ……それはそれで……」
箸を取りながら言葉尻を濁す近藤に、土方が深刻そうな声を出した。
「いやマジ冗談抜きで」
土方が控えていた煙草に火を点ける。深々と煙を吸い込み、溜め息と一緒に吐き出した。間接照明の薄暗がりで見る土方の顔には、微かに疲労の色が窺える。
「真選組なんてとっつぁんが一言いやぁ消え去るような代物なんだ。いつ潰されてもおかしくねぇ。ホント……よかったよな、こんなことで済んで」
「トシ……」
「気は進まねェがこれぐらいならいくらでもやってやるさ」
思わずぎゅうっとしたくなったが、そういうことをすると土方は怒るので抑えることにする。そもそも今はお膳が邪魔で手が届かないし。
「考えようによっちゃア、出世したってことじゃね、俺たち。真選組発足の時だってもっと安酒だったぞ」
「確かにな」
そう言って土方はわずかに表情をほころばせた。「大将に手酌させるわけにゃいかねェだろ」と徳利を差し出す。なみなみと注がれた酒は凛とした清涼感とともに咽喉を通り抜けていった。酒も料理も正直値段なんて分かる舌ではないが、本当に美味しいと感じる。
「美味いなぁ」
呟く近藤に、自分の猪口にも注ぎながら土方が微笑む。
「そうやって静かに飲んでると、あんたもまんざらじゃないな」
「なんだよ、まんざらって」
「お偉方の中にいても引けを取らねェってこと」
そう言って満足げな笑みを浮かべる。
「悪くない」
「なー!いつもはダメみたいじゃん!」
珍しく真っ直ぐな土方の賛辞に照れないわけがない。手にしていた酒を一息に空けた。空になった猪口に視線を落とす。
発足から今日まで、隊士皆ががむしゃらにやってきたが、そんな中でも土方の気負いは群を抜いていた。ともすれば反感を買いかねない厳しさで隊を取り仕切り、真選組は着実に実績を残していった。屋台骨は堅牢なものとなり、規模は拡大し、組織として安定を得たが、土方の副長然とした姿勢は崩れることはなかった。近藤の前ですらそれは変わらず、寧ろ近藤の前でこそ土方は頑なに副長であろうとしていた。
土方のその気持ちは分かっているつもりなのだが、と近藤は無言で猪口を膳に戻した。向かいの土方に目を向ける。土方は酒も料理もそこそこに、新たな煙草に火を点けている。
「こっちきてからトシ、煙草増えたよな」
「あんたは一段と惚れっぽくなったな」
口角だけで笑って煙を吐き出す。紫煙が近藤の元まで漂ってくる。組織が大きくなるにつれ、ではなく、近藤が誰かに惚れるたびなどと考えるのは自惚れだ。
「……ちょっとイラッとしたりする?」
「女があんたのストレスを晴らしてくれるならいんじゃねェの」
たなびく煙を指に絡める。敢えなく霧散する煙に名残を感じて近藤は空を掴んだ。まるで己の業で途切れる蜘蛛の糸だ。辿ることすらままならない。
「どこまでも副長だな」
届かないほどの小声で呟く。空の猪口を再び手にすると、見通した土方が徳利を近藤に傾けた。差し出された徳利の口を取り上げる。
「こっちに来て注いでくれよ」
ゆっくりと声音を落とす。浮かべた笑みに貫禄を滲ませる。土方が望むように。土方が拒めないように。
─終─