刀袋の紐を解く。研ぎに出してあった愛刀が戻ってきた。風が入らないよう部屋を締め切り真ん中に腰を下ろす。伊東は息を詰め、白鞘に収められた愛刀、兼氏を抜いた。
ぬるりとした刀身が現れる。緩やかな曲線が明瞭な境界線を描き、柄から切っ先へと伸びている。刃を辿るように視線を滑らし、目釘抜きを打つ。右手で、柄を握る手の甲を軽く叩いた。柄が外れ、むき出しになった刀身に目を落とす。刃の平地に隣の部屋が映っていることに気付いた。
閉めたはずの襖がわずかに開いている。
刀身をやわらかい布で拭う。棟区から切っ先にかけて表面の油をサーッとふき取る。繰り返し繰り返し、丁寧に油を落とす。
襖の隙間から二人の人影が覗き見える。二人とも隊服を着ている。片方は近藤だった。もう片方は陰になっていてよく見えない。だが伊東は、土方だと直感する。
打粉を軽く叩き再度布で拭う。
近藤が背を曲げる。口が動き、名前をささやいた。応えるように陰になった人物も動く。黒髪が見える。二人の唇が触れた。
蛙が鳴いている。雨が近いらしく空気が重たい。じとりと首に汗が浮かぶ。
「先生」
廊下から呼ぶ声が聞こえる。油を落としきった刀身は渇き、鈍く光を帯びている。
「先生」
声が近づく。煩い。落ち着かない。苛立ちが増す。胸が騒ぐ。
障子から襖へ。襖から背後へ。声はめまぐるしく移動し、共鳴し合い、増殖する。
「先生」
耳障りだ。
イライラする。
「先生」
刀身は相変わらず襖の隙間を映す。
静かにしろ。
煩い。
黙れ。
黙れ!
「黙れ!」
勢いよく襖を開け放った。木材と木材のぶつかる、破裂音にも似た軽快な音が響く。
近藤は動かない。唇に触れては離れる、を繰り返す。スクリーンに映し出された映像のように、繰り返し同じキスを続ける。近藤に顔を寄せていた人物が伊東を見る。確かに土方だった。
裸の刀が手のひらに食い込む。影が晴れるかのように、黒かった髪が黄濁色に変わっていく。眼鏡の奥の切れ長の目が優越に細まる。見間違えるはずもない自分の顔。見下ろす伊東には見向きもせず近藤がささやく。
「先生」
違う。
「先生」
違う。違う。違う。
「先生」
「黙れ!黙れ!黙れッ!」
見下ろしていたはずが、いつの間にか向かい合っている近藤の胸ぐらを掴み、乱暴に押し倒した。鈍い音がして互いの額がぶつかる。鼻先は触れるが、唇は触れない。
「どういうつもりか知らないけどね……馴れ馴れしいと思わないかい……君ごときが……」
頭の中がザワザワする。手に力を込め、首を絞める。筋肉の弾力が親指の腹を心地よく押し返してくる。
「先……」
「耳障りなんだよ……君の声は……」
近藤がすがるように伊東の腕を掴んでくる。上下する喉仏を押し付けると、ひしゃげた声を出した。虚ろに空いた近藤の口腔内は黒く寒々しかった。
「ははは。本当に癇に障る」
手に力がこもっていくのが止められない。ガリガリと爪を立てていた近藤の腕は力をなくし、伊東の腕にしなだれかかる。ささやくように耳元に口を寄せる。
「僕が君の口を塞いであげようじゃないか」
目の眩むほどの恍惚と興奮に伊東は身震いする。
タン、と軽い音が落ちた。絞めていた首の先に頭がない。体から離れた首が畳の上をごろりと転がった。切断面は無機質で血も出ていない。首だけの近藤と目が合う。近藤は伊東に微笑みかける。
「先生」
水面から顔を出したときと同じように伊東は荒々しく息を吐いた。額はじっとりと汗ばんでいる。戸は三方とも隙間なく閉じたまま、部屋はひどく静まり返っていた。やわらかい雨音が微かに聞こえる。目の前には目釘抜きや丁子油、柄などが整然と並ぶ。
首など転がっていない。
むき出しの刀身を見下ろすと伊東はその刃先を指でなぞった。指の腹に鋭利な痛みが走る。乾いた畳にひとつふたつと血痕が滴り落ちる。磨き上げられた刀身は天井と伊東の顔を映している。
単純な話だ。耳障りなら口を塞げばいい。
自然と鼻歌が零れる。リズムを口ずさみつつ血のついた刀を再び丁寧に拭った。丁子油を薄く均一に延ばすと、渇きを癒すかのように染みわたっていく。眠っていた兼氏が覚ます。ハバキを嵌め鍔を通し、柄巻きを固定する。もともと伊東好みの反りの浅いすらっとした刀だったが、拵姿は特に美しい。
す、と襖の開く気配に伊東は警戒を強めた。静かに襖が開き近藤が顔を覗かせる。
「先生、機嫌いいね」
機嫌?と疑問に思ったが、鼻歌が聞こえたのだろうと察する。それで顔を覗かせたのだろう。取り立てて用もないようで、立ち話のまま部屋に入ろうとはしない。
「いいことあった?」
なぜか嬉しそうに近藤が聞く。
「別に何も」
板についた笑みで応えると、伊東は上機嫌で刀を鞘に収めた。
─終─