月見酒

 緩やかな風が前髪を軽く撫でていく。空にはまばらな星に囲まれ、黄色い月が柔らかな光を漂わせている。しん、と静まり返った夜の空気が、人々の寝息を運んでくる。縁側には冷酒の入ったガラス製の徳利と、乾きもののつまみが置かれている。
 好い晩だった。
「きれいな月だな」
 縁側に腰掛けている近藤が猪口を傾けながら、ぽつりと漏らした。昼の喧騒を離れ、今の近藤の声はよく聞こえる。煙草を吸うのも勿体ないほど澄んだ空気だった。
「あぁ」
 その意見に同意して、土方も酒に唇を浸した。
 美味い。
 大使も寝静まった夜更けに、ちびちびと酒を飲み、時折言葉を交わす。そんな近藤との時間が土方には大切だった。
「なぁ、今日の見廻り中に誰と会ったと思う?」
 ふと、月が陰った気がした。
「知らねェな」
「それがさ、ばったり長谷川さんと会ったんだよ」
 近藤の口から長谷川の名前が出ることは昔から度々あった。若くして入国管理局の局長になった長谷川に、尊敬や憧れを抱いているようだった。それは長谷川が入国管理局局長から退いてからも変わらない。
 土方は黙って酒を口に含んだ。味が落ちている。
「でな、悪いかなーとも思ったんだけど、入国管理局を辞めた理由を訊かせてもらったよ」
「へぇ」
「自分の信念を通すにはやむを得なかったんだってさ」
「へぇ」
 嬉々として喋る近藤を横目でちらりと見やると、すぐ手元の杯に視線を落とした。こんな時間にでかい声で喋るんじゃねェよ。透明な液体に映る月が小さく揺らいでいる。
「やっぱ、男はそうでなくっちゃな。俺も自分の信念通すような生きかたするよ!」
「俺にはいい歳してろくな職にも就けない社会不適応者にしか見えねぇけどな」
「おい、トシ!」
 近藤の声に怒気がこもっている。当たり前だろう。左手が煙草の箱を探し始める。紫煙をくゆらせたい。
「俺は」
 煙草が見つからない。
「俺は──」
 左手はせわしなく煙草を探している。だが見つからない。
「俺はあんたを放す気はねぇからな」
「トシ?」
 あぁ、どこにも煙草がねぇ……。
 猪口を持つ指先が白くなっていく。
 怒っていたはずの近藤が不思議そうな視線を向けてくる。
「例えあんたが全部捨てようとしても俺はあんたを放さねぇから」
「おいおい、全部捨てるなんて俺は一言も……」
「言ってんじゃねェか!」
 視界の端に困ったように笑う近藤の顔が映った。その顔に、力任せに、持っていた杯を投げつけた。入っていた酒がこぼれ、近藤に降りかかる。
「あの男みてぇな生きかたがしたい、てそういうことだろ!」
 感情が先走っている。土方は近藤の着物を両手で掴むと、ぐっと引き寄せた。
「俺にも真選組にもあんたが必要なんだよ!」
 鼻先に近藤の顔がある。滴のこぼれる髪の下で、近藤の目は優しく微笑んでいた。
「そうか、ごめんな」
 大きな手が土方の頭に添えられた。髪をすくうようにゆっくりと撫でられる。
「俺は今でもちゃんと信念通して生きられてるからな。トシや総悟や皆のおかげだ」
 どこにも行かないと、近藤は微笑した。あんた、ズリィよ。普段は子供みたいにはしゃいで騒いで笑ってるくせに、どうしてこういう時はそんなに大人なんだよ。どうして俺はこんなにもガキくせぇんだよ。だからあんた、外に眼が行っちまうんだろ?
 着物を掴んだまま、湿り気を帯びた近藤の胸に顔をうずめた。酒のにおいが鼻を衝く。それでも近藤は土方の頭を撫で続けている。その手の重みが心地良いと感じてしまう自分に、土方は小さく舌打ちした。

─終─



   あとがき

 土方が嫉妬深い女にならないように気をつけながら、結局嫉妬深い女のように……。