約束

 大きな手が四指を緩く丸め小指を立たせる。小さくて柔らかい子供の手もそれにならって小指を立たせると、差し出された指に絡ませた。
「約束でィ」
「わかった。約束だ」
 近藤がにこにこ笑っていることに納得がいかず小指にぎゅうっと力を込めると、近藤が真剣な顔で頷いたので沖田は大いに満足した。


 夕飯の献立から命に関わるものまで、沖田と近藤は数え切れないほどの約束を交わしてきた。時には破ってしまうことも破られることもあるが、沖田はそれほど気にしていなかった。約束をすること自体に意味があったからだ。約束を数だけ自分と近藤の間に見えない糸が張られていくように感じていた。
 分厚いプラスチックの仕切り越しに現れた近藤は以前と変わらず快活に笑っていたが、やはり目元には隠しきれない疲労が滲んでいる。それも当然だろう。近藤が警察に身柄を押さえられ既に一年が経つ。逆賊の疑いは晴れたにも関わらず、近藤は桂小太郎や平賀源外と共に処刑される日を待っている。白阻蔓延に何一つ効果的な手が打てず、信用と力を失った幕府は権威回復に躍起になのだと土方は言う。沖田はしなだれた髪を見て、鏡の前で毛先を立たせていた近藤の姿を、懐かしい情景のように思い出していた。
 面会に来た沖田を見て、無精髭の生えた頬をひと撫ですると近藤は面白そうに笑った。
「髪伸びたなぁ」
「願掛けてやしてね」
 結わえた髪が隊服の襟元で揺れる。沖田の応えに近藤の表情が曇った。
「総悟──」
「何か必要な物はありやすかィ。今度山崎に持たせやす」
 柔らかいが強い口調で近藤の言葉を遮る。近藤の言いたいことはわかる。だが自分たちにはそれ以上に優先しなければならないことがある。
「俺はこれからしばらく会えなくなりやすが」
 そろりと視界の端で監視の目を確認する。ドア前には無表情で直立している刑務官。人手不足と白阻への不安で憔悴している。天井角のカメラは囚人と面会人の様子をウロのようなレンズで淡々と撮影し続けている。
「代わりに山崎が来るんで、存分にパシらせてやって下せィ」
「しばらくってどれくらいだ?」
「俺の髪が背中に届くくらいですかね」
「……先だな」
 微笑む近藤の目に諦念の色が見え、沖田は思わず手を伸ばしていた。手のひらが透明な壁に阻まれても、少しでも近づきたくてパイプ椅子から腰を浮かせる。今までならいつでも手の届く場所にいたのに。
「近藤さん、俺とあんたの一番初めの約束覚えてやすかィ」
「ああ、もちろん」
「それ必ず守ってきだせィよ。絶対守ってくだせィよ」
 右手は依然として透明な間仕切りに阻まれている。近藤は迷っているようだった。真っ直ぐに突き刺さる視線を受け、やがて近藤は観念したかのように沖田の手に自らの左手を重ねた。表情は沈んだままだったが沖田は承諾と受け取った。それがどれだけ喜びに、安堵に、励みに繋がるか。一回り大きな手のひらの感触も暖かさも沖田はまだ思い出せる。
「俺も必ず守ります」
「無理はするな」
 それも約束しろと、かすれた声が呟いた。
 引き結ばれた厚い唇を見つめる。こけた顎の形も強さを失わない瞳も、今ある近藤の全てを心に刻み込み、沖田は掴めない手を握り締める。次に会うときは手で触れられる距離だ。


 便所の中で近藤は完全に頭を抱え込んでいた。ちり紙置きの箱をひっくり返し、紙片一つ落ちていないことを改めて確認すると、さらに何度目かわからないため息を吐きだした。
 こもること一時間。近藤は絶望の淵に立たされていた。テロ行為とも思える急激な腹痛で便所に駆け込んだ近藤が、ゲリラとの激戦を制しほっと息を付いたのも束の間、虎視眈々と期を狙っていた伏兵が牙を剥いた。尻を拭く紙が一枚もなかったのだ。
 元来のコンプレックスになるほどのケツ毛に加え、今しがたの激戦。兵士に蹂躙された村を拭かずに出るという選択肢は存在しない。両親は仕事に、祖父は出稽古に行っている。紙を持ってもらえる家族は現状では一人もおらず、近藤が便所にこもりっきりなのを知る者は誰もいない。聞こえてくるセミの声にジリジリと神経をすり減らしていく。しゃがみっぱなしの脚は痺れ、すでに感覚がなくなりつつある。
「腕が二本あるって……そういうことじゃねぇ?」
 汗が首を伝い胸へと落ちる。マメだらけの両手を眺めながら近藤は呟いた。夏場の便所内に停滞する熱気にやられ、もはや近藤はまともに思考することもできない状況であった。
「右よりは左かなぁ……」
 汲み取り式の便器の穴から流れたひんやりとした空気が近藤の尻を撫でる。底の見えないこの黒い穴は黄泉の世界へ続いているに違いない。亡者に導かれるように近藤は左の手をそろそろと尻の後ろに持ってゆく。ごくりと喉が鳴った。膝裏が汗で滑る。指先が尻穴に触れようとするまさにその時であった。
 元々壊れそうだった簡易な錠がネジごと弾け飛び、近藤の後頭部に直撃した。便所の古びた扉は勢いよく開かれる。振り返った先には、小さな手一杯にちり紙を抱えた沖田の姿があった。
「えっ、は?総悟?」  思いもよらぬ人物の登場に、近藤は尻丸出しの間抜けさも忘れ沖田の顔を凝視していた。小さな少年の後ろには底抜けの青空が広がっている。どれほど急いで来たのかふっくらとした頬を紅潮させ、流れる汗を拭いもせずに、握りしめたちり紙の束を近藤に突き付けた。
「近藤さんが困ってる気がしやした」
「助かった、総悟ぉ!」
 感動しながらしわくちゃなちり紙を受け取ると、その手をぎゅっと握られる。
「近藤さんが困ってるときは俺がぜったい助けにきやすから、近藤さんはぜったい諦めちゃなんねェよ。ぜったいですぜ」
 たかだか便所の紙ひとつで、まるで生死でもかかっているかのような真剣さで言ってくる沖田を、近藤は笑い飛ばすことができなかった。沖田がこの時の近藤には確かにヒーローに見えたのだ。

─終─



   あとがき

 映画の近藤さんはがちでヒロインでしたね。逮捕→処刑→救出までの真選組の動向が気になって仕方ありません。