部屋の外が騒がしさを増し、松平に呼ばれ登城していた近藤が戻ったことを知った土方は、自室で新聞をめくりながらその襖が開くのを待っていた。社会面の隅に、激化する攘夷運動とそれを取り締まる浪士組の小さな記事を見つける。少し思案してから土方がハサミを手にしたところで、派手な音を立てて部屋の襖は開かれた。
「トシ!俺たち今日から真選組だぞ!」
入ってくるなり近藤はそう告げると手にしていた半紙を興奮気味に広げてみせた。力強い筆致で“真選組”の三文字が書かれている。ハサミと新聞を置いて立ち上がった土方は近藤からその紙を受け取りまじまじと眺めた。
「あんたは真選組局長になったわけか」
「そう!トシは真選組副長だな」
「局長」
「おっ!なんだい副長!」
顔を上げると近藤と目が合い、同じタイミングで笑いあった。
掲げ持つ半紙が差し込む日差しを透かす。墨の匂いが鼻腔をくすぐった。自然と口角が上がる。
「いい名じゃねぇか」
「俺もそう思う」
「揃いの隊服作りてぇなァ」
「背中に真選組って入れちゃう?」
「……いや、もっと格好いいのにしようぜ」
「早くみんなに伝えないとなー」
部屋の外が騒がしくなったことに何事かと、二人が目を向けるのと同時だった。閉まっていた襖がみしみしと音を立て、外れる襖と共に覗き見していた隊の仲間たちが雪崩のように倒れこんできた。押すな重いと騒ぐ積み重なった人山に土方が近づく。
「おい、山崎」
土方の冷やかな声色に山の一番下敷きになっている山崎は表情をこわばらせる。一瞬張りつめた空気になったかと思うと、土方はにやりと笑った。
「看板屋に行って表札作ってもらってこい。一番立派なやつな」
土方の言葉で何事か察した山崎が期待するように土方を見つめた。
「なんて書いてもらいましょう」
山崎の視線を受け土方が近藤を見る。自ずと集まる皆の眼差しに、近藤は一際堂々と宣告するのだった。
「特別警察 真選組屯所!」
差し込んだ朝日の白い線が、古ぼけた電灯の笠に当たって途切れている。せんべい布団の中で土方は見慣れぬ天井を見続けていた。安長屋の薄い壁越しに聞こえる、明るい音楽とアナウンサーの喋り声を聞きながら漫然と四方を見回す。確認作業のようなそれを終えゆっくりと瞬きをすると、土方は枕元の灰皿を引き寄せた。
一日の終りに隊服のしわと汚れを軽く落としてから壁に掛け、翌朝その隊服に着替えて一日が始まる。毎日毎日土方の日々はこうして繰り返されてきた。
隊服の掛かっていない壁は妙に白々としていて、息詰まりを覚えた土方は煙草に火を点けた。隣の部屋からテレビの笑い声がする。
朝が来てしまった。昨日から続く今日が来てしまった。
古びた雑居ビルの間に身を潜ませ、紫煙をくゆらせる。錆びついた鉄骨階段の下には雑草の生えた鉢植えと、束ねた新聞紙が置かれていた。第十五代徳川将軍就任の見出しと共に徳川喜々の顔写真が大きく掲載されている。
組織を失った真選組の面々が配属されたのは江戸の同心だった。自分たちから近藤を奪ったものからまだこの街を守るよう命じられたことに憤る者も多い中、土方はそれを受け入れた。従順に隊服を脱ぐ土方を沖田が信じられないものを見るように見ていた。
ぽとりと新聞紙の上に吸っていた煙草を落とした。こぼしたコーヒーみたいに、灰の先から焦げ跡が新聞記事をじわじわと侵食していく。紙の表面を炎が舐め、灯った小さな火種が徐々に大きくなるのをぼんやりと眺める。新聞紙の燃えカスが小さな火の粉となって空中に舞った。紙の燃える臭いを深く吸い込む。広がる炎を見ていると頭蓋の裏が麻痺したように、ゆっくりと感覚がなくなっていく。
「ふくちょ、ぉおお!なにやってるんスかぁああ!!」
「うるせーぞ、ハ……うおおおお!!」
一服から戻らない土方を呼びに来ていたハジと、さらにハジの大声を聞いて顔を出した小銭形が揃って目を剥いた。火の上がる新聞の束を前にぼんやりしている土方を押しのけ、小銭形は着ていた羽織を脱ぐと火元に叩き付けた。小銭形の慌てる姿に土方の意識もようやく現実に帰り始める。消火しようと奮闘しているところに、ハジが近隣住民に汲んでもらったバケツの水をぶちまけ、ボヤ騒ぎは大事になる前になんとか消し止められた。
「……すまない」
弱々しく頭を下げると、ぐったりとした小銭形が土方を見やる。
「今日はもう上がりな。警察が放火なんざ笑えんからな」
「アニキもそう言ってることだし少し休んだ方がいいッスよ」
二人が心の底から土方を案じていることがわかり、申し訳なさからもう一度頭を下げた。
突然の休暇に土方は当て所なく街をさまよっていた。多くの人が行き交う街の中で土方を気に止める者などおらず、皆それぞれの目的で歩いている。
国のトップが代わっても、前将軍が殺されても、警察庁の長官が捕まっても、人々の営みは変わらない。一週間もしたら将軍様を悼むのも飽きだして、口に上がりすらしなくなる。本当の意味で今の安寧を懸念している者は少ない。天人がこの星に降り立ってから二十年も経っていないというのに、忌まわしいほどに人々は平和というものを信じきっている。きっと近藤は誇らしく笑うだろう。
当初、将軍の葬儀に近藤も警備として加わる予定であった。それが当日になって急に屯所に残ると言い出したのだ。近藤は情の篤い男であったし、主従関係以上の敬慕の念を抱いていた茂々の見送りを自ら逃すとは考えにくい。違和感はあった。しかし時間が差し迫っていたのと、土方自身このところの展開に随分と憔悴していたこともあり、それ以上疑問に思うことなく承諾した。
悪いな、ありがとう。あとは頼む。近藤と最後に交わしたのはそれだけだった。
「ひでぇ面」
顔を出すなりそう言って片眉を歪めて笑った銀時は、土方と同じくらいひどい顔をしていた。
「邪魔するぞ」
返事も待たずに上がり込む。唐突に訪れた万事屋は誰の気配もなく、いつもの騒々しさが嘘のようにしんと静まり返っている。お前も一人なのかと、土方は自嘲めいた笑みを浮かべた。
横柄な態度でリビングのソファを勝手に陣取る土方を、銀時は特別咎めたりはしなかった。戸口に立ったまま、ただ黙って土方を見ている。習慣で煙草を取り出し、灰皿のないことに気づく。
「相変わらず茶も出さねェのかよ」
「いいのか。こんなとこにいて」
「いいも何も休み出されちまったからな。おかげさまで前より人間らしい生活してるよ」
手持ち無沙汰に火をつけていない煙草を口にくわえる。
「死んじまったら終わりなんだぞ」
衝動的にテーブルを蹴り上げた。
「てめぇがそれを言うのかよ!」
土方たちが知ったのはすべてが終わった後だった。近藤は連れて行かれ、見廻り組に制圧された屯所には銀時が力なくたたずんでいた。
「なにもせず黙って見送ったてめぇが!」
荒々しく近寄り銀時の胸ぐらを掴み上げる。
「俺がてめぇの立場にいたなら、近藤さんを連れて行かせやしなかった。俺が、あの場にいたら──」
声が震え、土方は一度深く息を吐く。
これが一方的な八つ当たりでしかないことを土方は充分理解している。屯所を抑えるほどの人数で来た見廻り組に対し、歩くこともままならない銀時がなにかできたとは思っていない。だがあの場にいたのは銀時だけなのだ。土方は居合わせることもできなかった。
「俺だって隊の連中を死なせたかねェ」
「手が後ろに回るような真似させるのも本意じゃねェ」
「組織の責任が問われてちゃ他に替えがきかねぇのもわかってる」
「それでも……」
薄暗い室内に差し込む日差しが、武州での日々を遠くに霞ませた。
「ただの一言もなしじゃあ、あまりにも甲斐がねぇだろうが」
やるせなさばかりが土方を苛む。誰に聞かせるでもない言葉を、嗚咽のように絞り出した。
「俺はあんたの副長じゃねえのかよ」
近藤がいなくなり、真選組が解体され、仲間たちも散り散りとなった。なにもかも失い、残ったのは魂のない抜け殻と化したこの身だけだ。
銀時の胸ぐらを掴んでいた手から力が抜ける。それを振りほどくと銀時は反対に土方の胸ぐらを一度掴みあげ、その体を押しやった。バランスを崩した土方はソファに倒れこむ。起き上がることのできない土方に銀時の声が落ちてくる。
「行けよ、助けに」
「……簡単に言ってくれるじゃねェか」
「副長がてめぇの大将取り戻すのにそんな難しい理屈がいるかよ」
ずれた机を机を直す銀時を土方はぼんやりと眺めていた。舞い上がった空気中の塵がキラキラと日差しを反射している。近藤と土方が武州を発つことを決めた日も、真選組の名を拝した日も、近藤が捕らえられた日も、今日のようによく晴れた日だった。
「結局あいつを助けに行けんのはお前だけだろうが」
「本当、簡単に言いやがって……」
ここまで言われてもなお答えを出せない、自分自身に反吐が出る。
腰の刀にそっと触れる。愛刀はいつもと変わらず、ざらりとした触を土方に返した。
─終─