軋む金属音が暗い階段に響く。間隔をあけて響く足音に、急く気持ちと対照的な体の重さを自覚する。錆の浮く安っぽいアパートのドアの前で足音は止む。もう何度となく目にしてきた馴染みのあるドアだった。今日という日を整理するように、一日の出来事が浮かんでは沈む。頭の中が煩すぎる。間もなく日付が変わろうとしていた。
急な来客を告げる鋭いチャイムの音が、深夜の静けさを響かせた。万年床の上で転寝していた長谷川はその音で目を覚ました。テレビはいつの間にか緩い深夜番組に替わっている。こんな時間に訪れる人物の心当たりは多くない。
急いでドアの鍵を開けてやると、隊服姿のままの近藤が今にも泣き出しそうな顔で立ち竦んでいた。
「……どうした?」
安堵のためか一層泣き出しそうになった近藤に入るよう促してやる。
「すんません、こんな時間に……。えー……近くまで来たんで、ちょっと──」
外から一歩入った場所で、ぎこちない嘘の途中に近藤が崩れ落ちた。
「近藤!」
驚いて傍らにしゃがみ込む。
「おい、どうした?大丈夫か?」
両手で顔を覆うようにしてうずくまっている。肩が細かく震えていた。
「長谷川さん」
「うん」
「俺、今日、女の子を殺してきました」
「……そうか」
近藤がここに来た理由はそれかと、上下する背中を出来る限り優しく撫でながら長谷川は思った。
数時間前のニュースでもそのことは報じられていた。見廻り中の真選組に、突如自らを攘夷志士と名乗る数名の男が斬りかかってきたため起きた乱闘で、近くに居合わせた幼い少女が運悪く巻き込まれ、命を落としたと、眉を顰めながらテレビは告げていた。実際に命を奪ったのは真選組ではなく襲ってきた男の一人だったらしいが、普段からあまり評判のよくない真選組も、ここぞとばかり槍玉に挙げられていた。
「犬が逃げたみたいで一緒に捜したんですよ」
「うん」
「そしたら、その犬噴水の水飲んでて……」
「うん」
「追いかけると尻尾振って逃げるもんだから、捕まえるの一苦労で……でも……」
「うん」
「……でも、動かなくなると逃げないんすよね。その子が動……かなく、なったら、寄ってきて頬を舐め……たり……して……」
抑えきれなくなった自責の念が嗚咽へと変わってゆく。それでも息を殺し、近藤は少女に謝り続けた。薄暗い玄関で傍にいる長谷川の存在すら見えず、全てを独りで抱え込もうとしているかのようだった。
「お前さぁ……」
丸くなった背中を撫でながら、長谷川は繰り返される謝罪の言葉を遮るように静かに口を開いた。然し実際に遮ったのは、唐突に流れ出した着信音だった。場違いなほどのんきなメロディが響き渡る。しきりに近藤を呼ぶ相手に、長谷川は眉を顰めた。多少苛立っていたのかもしれない。慌てて取り出した携帯電話を近藤から取り上げ
「勲、今日は帰らねェから」
と電話口の相手に告げた。
近藤が出ると思っていた相手は面食らい、そして一層近藤の身を案じるのだろう。知ったことではないが。
「長谷川さん今の……」
有無を言わさず電話を切ると、近藤が充血した眼で心配そうに見ている。泣いてはいなかったが、口元は固く結ばれていた。
「お前んとこの副長から」
言いながら奪い取った携帯を近藤の手に戻す。近藤の顔つきがすっと切り替わった。
「すいませ……帰りますっ」
手の中の携帯を一瞥し立ち上がろうとする近藤の手を、長谷川は離さなかった。ガシャッと音を立てて携帯が滑り落ちる。
「お前さ、なんで俺んとこ来たんだよ」
「長谷……」
近藤の表情がまた少し困惑したものに変わる。掴んだままの腕を引き寄せて、長谷川は自分の背中に回させた。遠慮がちに添える近藤の手の感触が伝わってくる。
「お前、もっと誰かにすがれよ。俺だっててめェ一人ぐらい支えてやれんだからよぉ。俺がいるのに自分の中に吐き出すんじゃねェよ」
顔の見えない近藤が、肩口に額をするように小さく頷いた。回された手が長谷川の着物を強く引く。
「……ありがとうございます」
「礼なんて言うな」
肩を抱く手に力を込める。預けられた体重に心地よさを感じる。すがれる相手がいるのなら、そこが真選組であろうと他の何処かだろうと構わないと、思っていながら、自分のところに来てくれたのが嬉しかった。
「長谷川さん、ありがとうございます」
「だから──」
「でも」
言葉を切り、近藤は肩に頭を乗せたまま動かなくなる。短い沈黙が訪れ、そして近藤の体が離れた。
「やっぱ、俺帰ります」
静かだがはっきりとした口調。
「なにも今から帰らなくてもいいだろ。今日は帰らないって言ってあんだし」
何を言っても無駄なのは解っている。近藤が一番に優先させるものも、よく解っていた。結局のところ近藤は、誰かに頼ることよりも頼られることによって、自己の安定が図れる人間なのだろう。
「無理に理由でもつけなきゃ泣くことも出来ないヤツが、待ってるんすよ」
そう言って近藤は気丈に笑うのだった。
─終─