熱帯夜に冷たいビールのお誘い

 小奇麗な黒板に『古文』の文字が嫌味ったらしく映えている。普段より遅い時間とはいえ、夏休みにしては十分早い。というか夏休みに学校へ来る時点でだるい。
「はよーございまーす」
 だるい状況でわりと元気な声が長谷川の頭上でした。顔を上げると、近藤の日に焼けた精悍な顔立ちと目が合った。白いシャツから伸びた腕も同じくらい焼けていて、実に夏男らしい容貌をしている。らしすぎて少し暑苦しいくらいだ。
「だるいっすね、補習」
「凄ぇだるい」
 きょろきょろ教室内を見回している近藤に自由席らしいことを告げる。平日より人数は少ないが、それでもかなりの数が銘銘席についている。見たことのない顔も多い。
「あ、そうなんだ」
 近藤が持っていた鞄を隣の机に置く。椅子を引くのと同時に、坂田が教室に入ってきた。袖を捲くっているとはいえ、この暑いのに白衣を羽織っている。けだるそうに黒板の前を歩き教壇に手をついた。
「はい、おはよう。大事な夏休みが補習で潰れて色々言いたいこともあるでしょうが、それはお互い様だコラァ。嫌なら赤点取るんじゃねェ」
 続いてやる気の感じられない出欠が取られ、ノートに活用のまとめとテスト範囲の現代語訳をするよう指示が出される。
「十二時までな。終わったヤツから帰っていいけど、終わらなくても十二時までには帰れよ」
 教室内の殆どの生徒が、黒板上の時計を注視しただろう。長谷川も当然その中の一人であり、未だ二時間もあることに落胆した中の一人でもある。
「ノートは補習期間の最後に提出」
 そう付け加えると坂田は教壇のイスに、どかりと腰を下ろした。どこから取り出したのか、ジャンプを捲り始めている。そんな坂田の様子もあって、初めは静かだった教室内も十分としないうちに騒がしくなっていた。
 教科書とノートを開いてみて、長谷川は小さく溜め息を吐いた。窓のほうへ目を向ける。逆光で教室の中は暗く落ち、青空と白い雲が四角く浮かんでいる。開け放たれた窓からは、少しも風は入ってこないのに、蝉の鳴き声だけは嫌ってほど入ってくる。
「暑い……」
 ふと反対隣を見ると、近藤もアホ面浮かべて頬杖をついていた。終わってから写させてもらおうとも考えていたが、これじゃ無理だと長谷川は観念した。
「近藤ぉ。分担してやらねェ?」
「いいすね」
 じゃあ、俺現代語訳します。と近藤が言う。
 作業を分担することで多少責任が発生してしまったため、取り敢えず真面目に取り組むことにする。言い出した側でもあるし。
 だが、しかし。
 四段活用やら上一段活用やら下二段活用やらナ変やらサ変やら……。集中力の限界を感じ、げんなりしながら時計を見る。まだ十一時前……。
「あーもう無理」
 シャーペンを投げると、硬いイスの背に思い切りもたれかかった。シャツの胸元を扇いで風を送り込もうとするが、まとわり付いた熱気は肌から離れない。すっかりやる気をなくしてしまった。
「なぁお前どうせ暇だろ?これ終わったらどっか涼しいとこにでも行かねェ?」
「あ、すいません今日は……」
 机の下で携帯をいじっていた近藤が半笑いで顔を上げた。暑さも補習も関係ないような極上のにやけ顔。
「は、なに、まさかデート?」
「まだ付き合ってるとかそんなんじゃないんすけどね」
「はぁーマジかよ。凄ぇ楽しいじゃん。暑すぎる夏じゃん」
 そうなんすよォ、と近藤の顔がさらににやける。
「精々有意義に過ごせば」
「長谷川さんは予定ないんすか」
「ねぇよ、なんも」
 近藤なんかはモテない代名詞だから適当に声かけて遊ぼうと思ってたのに、これではそうもいかなくなってしまった。高三の夏に見るつもりのない甲子園を全試合見る羽目になるのは、結構虚しいんじゃないだろうか。アブラゼミの鳴き声が暑苦しさを増す。気が付けば、時間の経過と共に生徒の数は確実に減っていた。坂田は持ってきたジャンプを読み終えたのか、完全に眠りに入っている。
「坂田とでも遊ぶかなぁ。あいつもモテねぇだろうし」
 ぱたん、と携帯電話の閉じる音がした。
「ちょっと聞きたいんすけど……」
 急に近藤が声を潜めた。身を乗り出しながら机も傍に寄せてくる。
「本当は付き合ってないのに付き合ってるって言う相手の友人に付き合ってるって言うのはどういう意味ですか」
「……まず言ってる意味が解んねェ」
「えーっとですねェ」
 そう言って近藤がノートの端に三人の棒人間を書き始めた。顔にA、B、Cと書き込まれる。
「AとBが友達なんすね」
 二人の棒人間の間に矢印が引かれ、『友達』と書かれる。
「で、CがBに」
 C棒人間からB棒人間に矢印が伸びる。
「『Aと付き合ってる』的なことを言ったんですよ」
 Cの頭から吹き出しが出る。
「これってどう──」
「好きなんじゃねェの」
 さらっと言い放った長谷川に、近藤が言葉を詰まらせた。
「やっぱりそうなんすかね……」
「で、AとBのどっちがお前?」
 急に近藤の顔が赤くなっていく。色が黒くて判りにくいけど、解りやすい。