「そこのアホ二人ぃー」
 離れた場所からけだるい声が聞こえてくる。
「俺ですか」
 長谷川が顔を上げると、教卓に顎を乗せた坂田が、他に誰がいるんだと言わんばかりの目で見ていた。確かにいつの間にか他の生徒は一人もいなくなっている。近藤も坂田に目を向ける。
「どうせやる気ねぇんだろ。ちょっと早いけど今日はもう終わりにしたいんだけど」
 ジャンプ読んで寝ていた坂田が「先生疲れちゃった」とぼやく。
「てめぇなんもしてねぇじゃん」
「でもそれちゃんとやってこいよ」
「解ってるよ」
 家に帰ってもやる気なんてしないが、早く終わるなら万々歳だ。机の上の教科書類を無造作に鞄に突っ込んでいると、同じように帰り支度をしていた近藤の手が止まった。だらだらジャンプを読み返していた坂田に近付く。
「訊きたいことがあんだけど」
「はぁ?なんだよ、突然」
 面倒くさそうな坂田を連れて、そのまま廊下へと出て行った。教室には長谷川一人が残される。支度は終えているし、いつでも帰れるのだが、長谷川はなんとなくその場に残っていた。今廊下に出るのが気まずいってのもある。二人は廊下で話しているらしく、話し声は聞こえてくるが内容までは判らない。
 急に静かになった教室内で、蝉の声だけが大きくなる。よく聞けばアブラゼミ以外のものも混ざっているらしい。携帯電話に用はないし、煙草も忘れてきてしまった。手持ち無沙汰になり、長谷川はふらふらと教壇に移動するとジャンプを手に取った。適当にページを捲り、流れていく絵に目を通す。馴染みのある作品はないが、乾いた紙の感触は懐かしい。
 目に付いたページから読み始めていると、蝉の声を打ち破って着信音が流れ出した。いつだったか近藤が好きだといっていたアーティストがワンフレーズ歌い上げ、半端なところで切れた。代わりに教室後ろのドアから大慌ての近藤が入ってくる。並んでいる机にがっしゃんがっしゃんぶつかりながら自分の鞄まで行き、携帯電話を開き、閉じたところで、ジャンプを読んでいる長谷川に気付いたらしい。
「そんなとこにいたんすか」
「帰る?」
「長谷川さんは帰んねぇの」
 一緒にか?と長谷川は笑った。
「いいよ、邪魔になりそうだし」
 邪魔じゃないと言っているが、近藤の様子はそわそわして落ち着かない。今すぐにでも飛んで帰りたいのが見て取れる。
「また明日な」
「ん、じゃまた」
 大きく手を振りながら、近藤は文字通り飛ぶようにして教室から出て行った。ばたばたと足音が遠くなりやがて聞こえなくなると、入れ替わり教壇近くのドアから坂田が入ってきた。
「せめてマナーモードにしとけよなァ」
 舌打ちまじりに独りごちている。
「坂田センセって、意外と青臭いことすんですね」
 長谷川が意味ありげに笑うと、教壇に上がろうとした坂田の動きが止まった。
「妙な入れ知恵したのお前か!」
「相談されたんだよ。仕方ねェだろ」
「大体お前、あれはそういうあれじゃなくてちょっと一石投じてみようか的なあれというか悪ふざけというか……あぁぁもぉぉ、てめェのせいでどんだけ誤解解くのに苦労したと思ってんだよ」
 だらだら文句を言っているが、近藤が坂田の言い分をあっさり信じただろうことは、壁越しに聞こえた声の調子で想像できた。単純に人の言葉を鵜呑みにして、近藤は携帯を握り締め走っていった。
 いっぱいに並べられた机の上に鞄がぽつんと乗っている。蒸し暑い空気も、停滞したまま動くことはない。教壇から一望する誰もいない教室はいやに静かだった。蝉の声だけが別の空間に存在するみたいに煩い。
「俺は銀さんと近藤でも結構いいんじゃないかと思ってたんだけどなァ」
 並んでいる机を見るでもなく眺めながら長谷川は呟いた。背後で坂田の気配がする。
「バカだねェ。どいつもこいつも」
 クリーム色のカーテンが揺らいだ。風が入ってきたのか汗ばんだ肌に涼しさを感じる。と、いきなり頭をはたかれた。
「なぐさめてやるから、今夜飲み行こうぜ」
「逆だろ、逆!必要ねェから俺!」
 振り返ると、黒板消しを手にした坂田と目が合った。黒板消しではたかれていないと願いたい。雑に消すもんだから、黒板は白くなっている。そういえば腹が減っていることに気付いた。考えてみたらもう昼だし、喉も渇いている。
「でもまぁ、今日暑いし、ビールってのは中々魅力的だな」
 開きっぱなしだったジャンプを閉じて、大きく伸びをする。横から坂田の腕がそれを取り上げた。長谷川は伸びの姿勢のままで坂田を見上げる。襟元はだらしないし、目も覇気はないし、「相変わらず夏が似合わねェなァ」と長谷川の胸のうちで笑った。

─終─



   あとがき

『晴れ模様』の補足ですね。無駄に長い。3Zのマダオは何歳なんだろう。