不器用な男の言い分

 形骸化しているとはいえ、国の最高責任者の執務室にアポイントもノックもなしに入れるのはこの人物だけだろう。いつもと同じく無遠慮に松平は現征夷大将軍、徳川茂々の執務室に押し入った。鮮やかな織りの絨毯が足音を消す。扉や梁には緻密な彫模様が日本の四季を謳い、正面に座する机は丹念に塗り重ねられた漆が蛍光灯に照らされ吸い込まれそうな艶を放っている。縁を螺鈿が飾り、その中央には葵の紋の金細工が嵌まっていた。全て先代の趣味だが、机がどっしりと分厚いのは銃弾の盾となるためでもある。この数年で江戸の事情は大きく変わった。それは兵器や市民の生活だけでなく、二百年続いた幕府の体制にも及ぶ。
 松平が入ったとき茂々は机の前で眠っていた。雑多な書類を広げたまま、左手を額に当てた姿勢で寝息を立てている。部屋は明るいが薄いカーテン越しの外は暗い。白い紙にインクをにじませている万年筆を松平は右手から抜き取った。昔元服の祝いに松平が贈った物だ。傍らに積み上げられた書類に一通り目を通し、また元の位置に戻す。茂々に自分の上着をかけようかと思ったが、短い逡巡の後その考えを棄却した。眼下に広がる夜景を一瞥してから厚いカーテンを締め直し、松平はソファに腰を下ろした。
 短針は九を越えている。腕時計に落としていた視線を机に向ける。茂々は未だ眠り続けていた。痩せたな、と松平は静かに思う。日々の鍛練を怠らず溌溂とした聡明な青年の姿は、一年余りの責務ですっかり変わってしまった。先代が匙を投げる形で降って湧いた大将軍の重責も、傀儡と化しているその実態も茂々は根気強く耐え、戦ってきた。情勢は少しずつ安定してきているが、将軍の心労がなくなることはない。
 控えめなノックの音に松平が頭を上げると、紙の束を手にした副官と目が合った。男は思いがけない人物の姿に一度あからさまに身を強張らせたが、すぐに将軍の机へ足を向けようとして立ち上がった松平に制止された。
「なんだ」
「……予算案です。先日天導衆のほうをその、通りましたので上様に──」
 天導衆の単語に松平は不愉快さを露わにする。濁し濁しな副官の手から取り上げ、ざっと目を通してから「ぬるい」と突き返そうとしたとき、背後で人の気配がした。
「片栗虎」
 寝起きのややかすれた声が松平を止める。振り返れば真っ直ぐに松平を見据える将軍の目があり、仕方ないといった様子で書類を手にしたまま松平は机の横へと移動した。松平から予算案を受け取った茂々は「目を通しておく」と副官に答え、副官もまた将軍の手に渡ったことを見届けると折り目正しく一礼をしてから執務室をあとにした。
 起きた茂々が再び万年筆を取るのを横目で見やり、また二人きりになった松平は先程と同じソファへどかりと腰を下ろした。
「どうした、片栗虎。お前はなんの用だ?」
「ちょっと手が空いたからよ」
 言いながら松平は内ポケットの煙草を探る。
「時間があるならメシでもと思ってなァ」
「もうしばらくかかる」
「そうか」