取り出したシガレットケースの中に巻き煙草は二本しか入っておらず、嘆息がちにそのうちの一本を咥えた。革張りのソファに靴のまま足を上げ、肘置きに頭を乗せる。細い紫煙が部屋の空気に溶けていく様がよく見える。カリカリと紙の上を滑る万年筆の音に耳を澄ませつつ、ハモが食べたいだとか明日の会談が面倒くさいだとか、そんなとりとめのないことを考える。泥のような倦怠感が四肢を柔らかいソファに沈めていく。
「片栗虎」
呼び声に薄く目を開ければ、ちょうど茂々が手元に視線を落とすところであった。松平は特に返事もせず煙草をくゆらせていると、茂々はペンを走らせながら続けて口を開いた。
「帰れるのなら帰ったらどうだ。栗子ちゃんの顔もろくに見てないのだろう」
「寝顔なら見てっからよォ」
「寝顔を見られていても子は覚えておらぬぞ」
完全に目を開き逆さまの茂々を見る。ソファから起き上がり咥え煙草を揉みつぶすと、溜め息と一緒に髪を撫でつけた。
「終わったか」
茂々は答えない。紙をめくる音やペン先の引っ掻く音が細々と聞こえてくる。松平はもう一度溜め息を吐いた。
「そんな心配しなくても今は──」
出かかった言葉を飲み込んだ。腕時計の秒針が沈黙を刻んでいる。
「……うちの事情だ。お前には関係ねぇよ」
飲み込んだ言葉の代わりに出てきたのはそんな突き放した物言いだった。どうか傷付いてくれるなと祈る己が無様で松平は自嘲する。政治家だろうと官僚だろと、凶悪犯、天人相手にも一歩も引かずに渡り合うというのに、娘の栗子や茂々と対峙した途端、適切な言葉を見失ってしまう。
片栗虎、と茂々の声が松平を呼んだ。軽く顎を引き、こちらへ来るよう要求してくるので、重い体を上げて傍らに立つ。椅子がギッと軋んだ音を立て松平に向き直る。腰かけたまま、茂々は松平の手を取った。
「余はまだまだ未熟だ。お前に負担を強いていることも自覚している。だが犠牲にはなってほしくないのだ」
眼元は疲労をにじませていたが、瞳がたたえる光は朝日のように清らかで眩しい。訴える手に以前のようなマメの感触はなくなっている。だが握るその手は力強かった。爪の淵はインクで黒く染まり、指先には先程のものがまだ乾かずに付着していた。
一年前、松平は茂々が征夷大将軍に反対していた。他に代わるものなど誰もいないとわかっていたが、交じり合う人間の理想と欲望を意のままに転がすには茂々は清廉すぎた。松平は代々徳川家に仕えてきた家系である。幕府の滅亡は何よりの不名誉であった。しかしそれ以上に素直で生真面目な若者のまっさらな心根が汚されるのを恐れていた。
「そんなくだんねぇことにかかずらってんな」
「くだらなくはあるまい」
「茂々」
松平は茂々の手をぐっと握り返した。両手で包みさらに力を込める。
「お前は自分の意志で最後の将軍とならない道を選んだんだろ。お前はこの国でたった一人の征夷大将軍だ。早く一人前になれ。俺に将軍と呼ばせて見せろ」
どこか不安げであった茂々の口角がいたずらっぽく上がった。
「やはりまだ認めてはくれぬか」
「あったりめェよ。俺ァ周りのじじい共みてェに甘かねぇからな。おらよ、立て立て。メシ行くぞ」
「明日は家族と食事を共にしてくれ」
余の頼みだ、と茂々は立ち上がった。そんなふうに言われてしまえば返答は一つしかなく、松平は居心地悪く「ああ」と答えた。いっそ言ってしまえばいいのかもしれない。気に病むなと。俺は俺の意志でここにいるのだからと……松平は渋面を作って最後の一本となった煙草を取り出した。できるかと胸中で舌打つ。今更そんな甘言吐けるわけがない。漂う煙に気が付いた茂々が松平を振り返る。
「体に悪いぞ」
あぁ、あぁ、栗子とおんなじことを言いやがる。
茂々の諌言に僅かに眉を動かすと、松平は軽く背中を押し、歩けと促すのだった。
─終─