「そしてこれが乙」
 幕府高官と真選組のパイプ役を、僕は自分の役目だと思っている。億劫がって口先で丸め込もうとする重臣連中を舌先で説き伏せることがね。当然攘夷寄りの人間を相手にすることもある。残念ながらこの国は一枚岩ではない。考えの異なる者に費やす時間が多くなるのはやむを得ないことであって、あなたが案じるようなことは何一つない。
「好きな方を選ぶといい」
「選んでいいなら、俺は後者を選ぶよ」
 裏も表もないような顔で近藤は即答した。ニコリと笑うので、伊東もニコリと笑い返す。そうだろうね、君ならそっちを選ぶだろうねと裏腹に皮肉る。
 伊東は失望していた。
 わざわざ選んでいいならなどと前置きして、伊東の真意に勘づきながらお人よしな体面は崩さず知らぬふりをする。このあと屯所に戻った近藤は人のいい顔をして、あいつは裏切り者だと土方に告げるのだろう。土方の方がよほど素直だ。
「ありがとう、信じてもらえて嬉しいですよ」
「俺もトシも学はさっぱりだ。先生には苦労かけるよ」
 慣れたはずのふわふわとした実のないやりとりが今の伊東には酷く苦痛だった。硬質なノックの音に救われたと感じるほどだ。花瓶と切った桃を手にして器用に扉を開ける篠原に、一度腕時計に視線を落としてから近藤が立ち上がった。
「そろそろ仕事に戻るとするよ」
「僕もできるだけ早く復帰できるよう努めます。それまで迷惑をかけると、土方君にも」
「ああ、伝えておくよ」
 和やかな別れの挨拶のさなか、立ち尽くしたままの篠原だけは不服そうに口の端を歪めた。
「もうお帰りですか。せっかくなので桃だけでも食べていかれては」
「悪いなァ、篠原。先生と食べてくれ」
 剥いたばかりの柔らかい果肉を一切れつまみ上げ口に含むと、近藤は病室を出て行った。
 近藤がいなくなり、伊東は知らず溜め息を吐いた。篠原が「どうぞ」とベッドテーブルに桃の皿を、サイドテーブルに花瓶を置き、今しがた近藤の座っていたパイプ椅子に腰かける。
「どうでした、近藤は」
「手紙の行方を土方が嗅ぎつけた」
 早い、と意識せず篠原は呟いていた。
「それぐらいでなければつまらない。向こうがそう来るならこちらも相応の対処をしてやろうじゃないか」
「なら私は一旦屯所に戻った方がいいですね」
「その前に新見君に連絡を」
「わかりました。それにしても、近藤がそういったことに絡んでくるとは意外でした」
「あれは存外したたかだよ」
 言いながら先程の失望感が蘇る。体の内側がどろどろに混ざり合うような、手足の先から体温を失っていくようなこれは、昔よく味わった感覚に似ている。
 自分が剥いた桃を自分で食べながら篠原は「顔色が悪いですよ」と言ってくる。水晶体の裏側で篠原が伊東の本意を観察している。その視線が煩わしくて伊東は顔を背けた。枕下の書状を文箱にしまい、サイドテーブルに置こうとして甘い芳香に気が付いた。伊東が露骨に顔をしかめる。見舞いに百合の花を持ってくる無頓着さが本当に嫌いだ。
 桃を一人で全部食べきった篠原が「新見に連絡してきます」と皿を持って立ち上がった。
「横になった方がいいですよ」
 一人になった病室で伊東は眼鏡を外し文箱の上に置いた。ぼやけた視界で白い花弁を一瞥すると布団にもぐりこむ。百合の匂いから逃れるためにきつく目を瞑った。嫌だ嫌だと、増殖した文字が羽虫のように羽ばたいて頭蓋を埋め尽くしていく。耳の穴から何かが入ってくるのを恐れて両手で耳を覆う。指先が冷たい。
 近藤の喉元に刀を突き付けてやれば、この暗澹とした気分も晴れるに違いない。そう考えながら伊東は深い眠りに落ちて行った。

─終─



   あとがき

 真選組時代の伊東先生は、数々の選択肢の中から選択を誤らなければグッドエンドに到達できただろうと感じるところが悲しいです。篠原君に夢を詰め込みすぎてズケズケした感じになってしまいました。