闇雲に歩きながら林の深くへと進んで行く。急ぐ足に草が絡む。勝手知った雑木林が今は嫌に広い。迫る夕闇に周囲は徐々に夜へ近付いていく。重なるように鳴く虫声が近藤をけしかけた。
傍らの茂みが揺れた。近藤は立ち止まり音のしたほうに目を走らす。一人の男が切羽詰った様子で茂みから飛び出してきた。酷く後ろを気にしており、近藤とぶつかりそうになると「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、転がるように坂道を駆け下りていった。
煩いくらいだった虫の音が、ぴたりと聞こえなくなった。茂みの奥、人目も触れず光も届かない一段と暗い木立の中に二人の男が立っていた。目を凝らすと木の根元に倒れている人間もいる。二人は見合ったままじっと動かず、何事か話しているのか時折人の声が聞こえてくる。奥の男の顔は影に隠れて見ることができない。手前の男、結った長い黒髪の背中。
「トシ!」
反射的にその腕を捕まえていた。名を呼ばれ男は振り返る。冷たく燃える眼が近藤を射抜いた。この眼には見覚えがある。初めて土方を見たあのときの眼。
「離せ」
掴まれた腕を見て土方が低く唸る。鋭い眼光が陰る。
「離せない」
まっすぐ見据える近藤の視線に土方は目をそらした。眼をそらしたが腕を振りほどくことはしなかった。
「らしくねェなぁ、十四郎」
影に立つ男が揶揄するように喉の奥で笑う。土方の肩がわずかに反応したことに気づき、近藤は握る手を強めた。
「まぁいい。好きにしな。あとはお前次第だ」
草を踏みしめる音がし、影に溶けるように男は姿を消した。土方は男を追わなかった。その横顔は暗い林の奥をただじっと見続けていた。
「帰ろう、トシ。皆が待ってる」
鳴き止んでいたはずの虫の音が静かに鳴り響いていた。
暗がりの天井と電灯の笠だけだった近藤の視界に、土方の顔がぬっと割り込んできた。目が合い、見下ろす土方の顔がわずかに驚いた。くわえ煙草の先端が赤く灯る。障子戸から射し込む夜明かりが土方の目をやわらかく照らしている。
「寝るなら着替えて布団で寝ろよ。それじゃ疲れるだけだろ」
少しぶっきらぼうな言い方が昔と変わらないことに頬が緩む。その首に伸ばした両腕は、指先がぬれた髪に触れたところで避けられてしまった。空回った腕で自分の肩を抱く。
「つれないなぁ」
「言ってろ」
ぼやく近藤に背を向け、土方が脇の文机に片肘をつく。
「なぁ、トシ」
毒を帯びた眼で剣を振るう土方を見て、どんなときも自分の側にいてくれると、この男自身が信じられる存在を与えてやりたいと強く感じたのに、土方が惚れた相手と所帯を持つ機会を潰したのは結局近藤だった。時折家庭の中の土方が思い浮かぶ。優しい妻と可愛い子供と過ごす、平凡で退屈で幸せな日々。父親の顔になっていく土方を前にして、自分がどんな表情をしているかわからなかった。
「どこか行ってもここに帰ってこいよ」
「何だよそれ」
起き上がって土方の背中を見ると、灰を落としながら振り返った。土方が冗談めかして笑う。
「指折り数えて待ってろよ」
「ああ。待ってる」
指先で小さな火が赤い蛍のように舞う。二人の間を飛びながら夏の気配を運んできた。
─終─