局長不在と伊東参謀

 いつもとは違う屯所の雰囲気に、近藤がいないのだと思い至った。急な出張で昨日の晩に連絡が入り、今朝早くに発っていた。朝食の膳に箸をつける伊東の傍に篠原が顔を寄せた。チャンスとばかりの喜色が表情からにじみ出ている。
「おはようございます、先生」
「おはよう」
「今日はどうされます?」
 そう言うと、周囲に目を配りわずかに声を落として、「近藤もいないことだし」と付け加えた。
「どうもしないよ。厄介なのは土方だ。近藤がいようがいまいが大して変わりない」
「ですが、土方といえ局長の分まで業務を負っていてはさすがに甘さが出るのでは……」
「きっと近藤不在時に問題が起こるなんてことがないよう一層神経質になっているだろうな」
 篠原の話を終わらせるように、伊東は箸を置いた。篠原が不満を顔に出す。篠原はよく気の回る優秀な男であったが、少しばかり感情が表に出やすいという欠点もあった。
「篠原君、顔」
「あっ、……すみません」
 短くいさめると口角に手をやり、口を引き結んだそれでも何か言いたげに見てくる篠原を視界の隅に追いやり伊東は立ち上がった。壁のカレンダーを無意識に見ていることに気付き、勤めて自然に目を逸らした。

 当初二、三日で戻る予定だった近藤だったが、なにが起きたかもうひと月になる。近藤一人がいないところでなんら問題なく真選組は動いている。もっともその程度で機能しなくなるようでは組織として問題なのだが。ただ局長不在を聞きつけた攘夷浪士の活動が激化し、真選組自体はかなりのオーバーワークになっていた。夜も昼と変わらず騒々しい屯所内に伊東はペンを置き、立ち上がり障子戸を閉めた。初秋の室内は締め切ると熱がこもるが、それでもまだそっちのほうがマシに思える。伊東が再び腰を下ろす前に、篠原は口を開いていた。
「やはり本人のいない今がチャンスだと思うんですよ」
 声の調子を抑えているのは部屋の外を用心してのことか。座布団に正座したまま、やや前のめりに強い口調で訴えてくる。
「今なら近藤派をうちに取り込むのも容易いのではないですか」
「くどいね君も」
「……お忙しいのも、なにか先生のお考えがあるのもわかりますが、この好機をみすみす──」
 篠原がすでに独断で行動していることに伊東は気付いていた。篠原なら伊東の意向から大きく逸れることもあるまいと黙認していたが、篠原自身もそれに気付き行動しているようだった。半月がすぎた頃から土方は日に日につのる苛立ちを隠さないようになってきている。確かに好機ではあった。伊東は置いたペンを形だけ取り上げた。視線はぼんやりとやりかけの書面を見る。おそらく土方の目をすり抜け、近藤派を懐柔することも、天導衆とつながりを持つ官僚に取り入ることも容易い。篠原が熱心に訴える理由も、理解していながらどうでもいいもののように感じてしまっていた。
「もし先生にお許しいただけるのでしたら、俺に一任いただけないでしょうか」
「好きにしたまえ」
 締め切ってあった障子が無遠慮に開け放たれた。相変わらずの仏頂面で土方は部屋に入ると、腰を下ろそうともせず、持っていた紙の束を文机に投げてよこした。土方の態度に篠原がカチンときている。
「また記入漏れだ。最近たるんでんじゃねぇのか」
「君のイライラが伝染しているのかもしてないな」
「あ?」
 土方のこめかみが引き攣る。
「副長が苛立っていると隊内の空気も悪くなる。少しは感情の制御ができるようになったらどうだ」
「そういうてめぇは、キナ臭い仕事に精が出すぎて本業がおろそかになってるようだがな」
 土方の不躾な言い草に篠原が割って入った。
「副長」
と土方を睨みつける。
「副長とはいえ今の態度はいかがなものでしょうか。参謀である先生に対してあまりに礼を欠いている」
 剣呑な篠原の視線を土方は意に介さず、煩わしそうに顎であしらった。それが余計気に障り、篠原が一層敵愾心を露わにする。
「篠原君」
「部下の躾もできないようじゃ上に立つ器じゃねぇな」
「だとしたら君も、もう一度近藤さんに躾なおしてもらう必要があるようだ」
 土方の目の色が変わる。嗜虐的に見えないよう注意しながら、伊東は柔和な笑みを浮かべた。
「近藤さんはまだ戻れそうにないのかい。随分長くなるが」
「このまま近藤が戻らずにいてくれたほうが、てめぇにゃ好都合なんじゃねぇのか」
「どうだろう」
 わざとらしく笑ってみせると、土方の顔が一段と不愉快そうにゆがむ。腰を浮かす篠原を左手で制す。