自己責任でお願いします。

 帰り支度を整え、坂田は着ていた白衣をイスの背もたれにかけた。電気のスイッチに手をかけたところで、棚にぽつんと置かれた携帯電話に気がついた。おそらく放課後、一服に現れた土方のもので十中八九間違いないないだろう。スチール棚には授業で使う資料などが収められており、授業の前には大概目をやっている。五限の前にはなかったし、それ以降坂田はずっと教官室にいた。他に携帯を忘れそうなほど長居した者もない。
 置き忘れの携帯を取り上げる。よく教官室を喫煙所代わりにできるものだ。もっとも文句は言うが注意しない坂田にも問題はあるのだが。高校生ならそのあたりはもう自己責任でお願いしたい。
 手にした携帯をたいした考えもなく鞄に入れると、坂田は教官室の電気を消し、静まり返る校舎を後にした。
 駅前通りから少しそれた場所、入り組んだ路地には小ぢんまりとした居酒屋やバーの類がいくつも軒を連ね、そのとき限りの歓楽で夜を照らしている。サラリーマン然とした風体の人々が連れ立って、または一人で、狭い通りを緩慢な様子で歩いていた。坂田も同じようにだらだら歩き、その中の一軒のガラス引き戸を開けた。店員の快活な呼び声が出迎えてくれる。平日だからか不況だからか満席ではないものの、がやがやとした心地よい雑音が店内を満たしていた。個人経営であるこの店の、無理に洒落た趣きを作ろうとしない、あくまでも大衆向けであるといった雑多な雰囲気を坂田は気に入っていて、一人での夕飯が億劫なときなどちょくちょく足を運んでいた。
 カウンター席に通され、お絞りで手を拭きながら『晩酌セット』を注文する。すぐに運ばれてきた生ビールを喉の奥へ流し込んだ。思わず一声発したくなるこの喉ごし。機能停止していた体が揺り起こされる。追ってアルコールが廻ってくる。声を発する代わりに坂田は大きく息をついた。
 二杯目のビールを頼んだ頃、鞄の中で携帯電話が振動したことに気づいた。割り箸を置いてテーブルの下の鞄を引っ張り出す。初め自分の携帯が鳴ったのかと思っていたが、点滅しているLEDの明かりに、そういえば土方の携帯があったんだと思い出した。ストラップもなにもない、味も素っ気もない携帯電話。開いてみれば待ち受け画面も初期設定のままらしく、黒い機体に合わせたコバルトブルーの画像に、メールのアイコンが表示されていた。
 坂田は割り箸で鮎の身をほぐしながら、持ち主が土方だし別にいいか程度の、軽い気持ちで今しがた受信したメールを開いた。差出人に近藤の名前が出る。毎日学校で顔を合わせてるってのにメールまでするってどんだけ仲がいいんだか。口語体のだらだら続く文面をスクロールしているうちに、ふと悪戯心が芽生えだした。タバコに火をつけ灰皿を引き寄せる。返信ボタンを押した。
『近藤さん、実は俺……ずっとあんたのことが好きだったんだ。突然こんなこと言ってごめん。どうしても伝えたくて……』
 灰皿の淵でタバコの灰を落とし、メールを送信した。我ながらバカバカしい。こんな見え見えの悪ふざけ、すぐに反応があるかと思っていたが、五分十分と経っても音沙汰がない。待っているのにも飽きてきて携帯電話をテーブルに放り投げた。
 鮎の皿も片付けられ、半分に減った二杯目のビールに合わせてつくねの串を引いた。テーブルの携帯が震える。取り上げてみれば近藤からのメールで、若干どうでもよくなってきていたが、メールを開封した。
『俺も』
 たった一言。咄嗟に消去していた。自分が送信したメールも消去する。手が震えて思うように操作できない。ゴトッと鈍い音がした。ジョッキを倒してしまったんだと気づいたときには、すでに若い女性店員が床に零れたビールを拭いてくれていた。反射的に腰を浮かすと、急に酔いが回ったみたいに目の前が眩んだ。携帯が滑り落ちる。手早く片付け終えた店員が「大丈夫ですか、お水お持ちしましょうか」と坂田に携帯を手渡した。
「気持ち悪ィ……」
 メールの文字がいやに熱っぽく網膜に焼き付いている。いつの間にか置かれた水の入ったグラスが結露で曇って見えた。