築二十五年。見た目どおりの安アパートが今日から俺の城となるわけだ。高級マンションから一変しての貧乏住まい。だが日に焼けた壁紙も、錆の浮くステンレスの流しも、独身時代が思い出されある種の落ち着きのよさを感じる。
「長谷川さん、これで最後です」
段ボール箱を抱えた近藤が床板を軋ませながら部屋に入ってきた。その髪に水滴がついているのを見て、隅の段ボール箱からタオルを取り出した。
「ありがとな。ホント助かった」
「全然いいですよ。いつでも手伝いますよ」
近藤にタオルを手渡すと同時に、窓を打つ雨音が強くなり始めた。
「うわ、危ねェ。本降りになる前に終わってよかったすね」
近藤が窓から空を見上げている。ガラスに当たった雨が無数の筋をつけて落ちていく。急に暗くなった室内と共に、俺は自分の表情が沈んでいくのを自覚していた。恐らく近藤も気付いただろう。狭い部屋には一人分の荷物が乱雑に置かれている。雨のせいかカビ臭い空気がこもり始める。
「……やっぱりハツさんに言ったほうがいいですよ、引越しのこと」
「出てったんだから関係ねェだろ」
その話題は何度目だ。半笑いで近藤の顔を見やる。
一ヶ月前俺は書置きを手に、マンションの一室で呆然と佇んでいた。局長職を失った途端、それまでの人間関係を失い、家庭をも失った。こんなに簡単に人って離れていくもんなのな。今ではそれはそれとし、新たにこれからを見据える気持ちになっていた。今回の引越しはその足掛かりだ。
「一ヶ月経ってもなん連絡もねェし、もう戻る気ねェんだろ」
「離婚届だってきてませんよ」
「関わりあいたくねェんじゃねェの。じゃなかったら世間体気にしてんだよ。金持ちだしな。つぅかさぁ、灰皿知らねェ?」
不毛な会話を強引に打ち切って、灰皿探しに取り掛かる。段ボールのガムテープを剥がすと、中には大小の鍋と数冊の本となぜ入れたのか理解できない木彫りの熊。呆れるくらいの雑多ぷり。開けた箱を脇に押しやり、別の箱を引き寄せる。
「一ヶ月待ってたんすよね」
「何処やったけなァ」
新聞紙に包まれた食器が詰まっていた。ねぇなあ、灰皿。本当に何処にしまったんだか。自分で梱包しといてさっぱり解からん。タオルはほら、軽かったから。さらに別のガムテープを剥がす。
「ハツさんもきっと、長谷川さんが迎えにくるの待ってますよ」
「なんか飲みもん買ってくるか。取り敢えず空き缶がありゃ煙草が吸えるし」
ガムテープを剥がしきって折りたたまれた蓋を開く。細々した日用品が放り込まれている。その中に陶製の灰皿を見つけた。こんなとこにあったか。箱に手を突っ込んで灰皿を取り出す。と、隅から一枚の写真が出てきた。若いハツの顔と若い俺の顔。
「会いたいなら会いたいって言えばいいのに」
灰皿を床に叩きつけていた。近藤が体を硬直させる。派手な音を立てた灰皿は綺麗に割れていた。
「待ってるわけねぇだろ。俺もあいつも」
雨の音が折り重なり聞こえてくる。
「なんなんだよお前さっきから。全部終わったの知ってるだろ。俺は人生最大の馬鹿やって、周りの人間は金も力もなくなった元局長を見限って、女房はみっともない亭主を見捨てたんだよ」
俺は冷静だ。だが激しさを増す雨が俺を煽る。考えるより先に口が動いている。
「逆に、お前は何でここにいんの。優越感に浸るためか?“こうはなりたくない”“俺も気をつけよう”とか?」
雨が煩い。いつまで降ってるつもりだ。
いっそのこと全部流しちまえ。
「俺はただ、長谷川さんが心配で……」
「お優しいねェ。流石現役の真選組局長様だよ。俺と違って大層人望もあるんだろうなァ。それじゃあ、哀れな哀れな俺なんかを放っておけねェよな。でも大丈夫。もう全部忘れることにしたからな。もう俺なんか忘れて、市民を護るために日夜頑張ってくれ」
近藤が割れた灰皿を拾い集め始める。
「俺には……大丈夫には見えないです。やっぱりハツさんが必──」
「なん、なんっだよ」
俺は近藤の胸ぐらを掴んでいた。その拍子で床に倒れこんだ。倒れた段ボール箱から中身が散らばる。鈍い音がして近藤が顔をしかめた。
「馬鹿なの?おま、馬鹿なの?ちょっとはよォ、空気読めよ。ホントお前、俺が……どんな……なんで……引っ越したとか……一ヶ月だぞ?全部なくしてまだ!なんなんだよ、ホントお前はよォ馬鹿なんじゃねェの!」
自然と右手を握り締めていた。うんっざりだ。カビ臭い部屋も散乱した荷物も鬱陶しい雨も侮辱的な仕事も自分勝手な連中も割れた灰皿も古い写真もなにもかもうんざりだ。
「ごめっ……すみません、俺、そんな……」
突然胸ぐらを掴まれたショックからか、近藤の目が困惑気味に見開かれる。気付かなかったとでも言うつもりか?あぁもぉホントうるセェなあ。わななく唇を噛む。激情に駆られ殴りつけてしまいそうだ。掌に爪が食い込む。
「それで気が晴れるんなら別にいいですよ」