近藤が静かに呟く。
「殴っても」
 握り締めていた拳がゆるむ。右手が近藤の頬を打った。
「……どうして俺にそこまでできんだよ」
 頬が赤く腫れる。右手が痛い。近藤が俺の目を見て笑顔を作る。
「長谷川さんの傍にいたいんすよ」
 血の気が引いた。襟元を掴んでいた手が、力なく離れる。真っ直ぐなのか馬鹿なのか、てらいもなく言ってのけるんだな。
「お前はいいヤツだよ。立派だと思うよ。嫌味じゃなくな。さっき言ったことも本心なんだろうと思えるよ。でも近藤が立派な分、俺はどんどん惨めに卑屈になってくんだよ。この先、今日みたいなことが何度もあったら、絶対に離れてくだろ」
「なりませんよ!離れねェって!」
「俺はお前の本心を疑わない自信がない」
 察しろ。
「お前がいると辛い」
 短い沈黙が訪れる。俺は項垂れ、近藤の顔を見ることができない。人の動く気配がする。近藤が重たそうに腰を上げた。
「何か飲み物でも買ってきます」
 ドアの閉まる音がした。その余韻も消える。これで俺は独りになった。静かだった。この部屋は広すぎる。何畳だっただろうか、などとそればかり考えているが、一向に答えが出てくる様子はない。底のほうから浮かんでくるのは失ったものの姿ばかりだ。どうすればよかった。俺になにができた。誰だっていつかは離れてゆく。共にいる間疑い続け、訪れるいつかに耐えるよりは、独りであることに耐えるほうがずっと楽だ。
 会いたいとは思わない。一緒にいたいとも、傍にいて欲しいとも思えない。
 それなのに、俺の手には携帯電話が握られていた。
 未練がましい。
 指先が痺れ、携帯を落としそうになる。力が入らないのは手だけでなく全身に及ぶ。震えが止まらない。空気が重い。呼吸が難しい。なんだか酷く疲れた。寝たら少しは気分もよくなるだろうか。荷物の整理なんていつやっても構わないんだし。瞼を閉じた。もう何も考えたくなかった。全部忘れたい。そう思ったとき、持っていた携帯電話が鳴り出した。
 電話に出たのは条件反射だった。
『あ、長谷川さん!』
 スピーカー越しに近藤の声が耳に響く。
『ちょ、長谷川さん、外外!外見てください!虹出てる!やばいすよ。半端ないすよ。凄ぇでけェ』
 酸素が肺に満たされる。すっと体が軽くなっていくのを感じた。なんだか涙が出てきそうになって、思わず笑った。顔を上げると青い空に白い雲が浮かんでいる。いつの間にか雨は上がっていた。体を揺すって立ち上がった。カーテンのかかっていない窓を開け、ベランダに出る。
「見えねェよ。場所違うし」
『あ、そっか』
 空気が水を含んでいる。日が傾き始めていた。もうそんなに時間が経っていたのか。
『長谷川さん、俺考えたんですけど──』
「なぁ、今何処にいんの」
『コンビニです。近くの』
「じゃあ今からそっち行くから道順教えて」
 ベランダから部屋に戻る。散らばった荷物を蹴りつけ踏みつけ部屋を抜ける。ドアノブに手をかけ、鍵を開ける。携帯電話からは近藤が道順を伝えている。
 ああ、久しぶりだ。久しぶりに思い出した。こんなに会いたいと思う気持ちを。

─終─



   あとがき

 正直あまりに酷い出来だったのでこっそり手直ししようとしたら、結局全部書き直してました。何でこのテーマで書こうと思ったのか解んない……。危うくネガティブなだけの話になりそうでした。てか虹って……。ロマンチだ。