一体どうしてこんなことになっているのだろうか。伊東は手の中の猪口に視線を落としたまま軽く眉をひそめた。傍らでは近藤が同じように猪口を手にしている。残暑厳しい早秋といえど宵の口には心地よい風が吹いてみたりもする。ガラス製の猪口は口当たりも涼やかで、辛口のキレもよく咽頭を抜けていく。手入れもろくにしない雑草だらけの屯所の庭は、やかましいほどの虫の音が世俗の喧騒から伊東達を隔離してくれていた。
酒の席としては随分と上等な部類だ。そこに不満はない。だからこそ余計に不審に思う。近藤が縁側で二人、酒を酌み交わすのであれば伊東より土方が座っているほうが自然じゃないのか。伊東と比べたら沖田や原田らのほうがまだ違和感がないだろう。そうやって訝しんでみたところで酒の美味さは変わらず、当たり障りのない話題にも花が咲く。飲ませ上手な近藤によって、伊東は自分でも気付かないほど酩酊していた。
見上げると墨を流したような空にぽっかりと白く輝く月が浮かんでいる。暈がかかり、虹色の輪が月の縁を飾っている。
「月が綺麗だなぁ」
呟いたのは近藤だった。リンリンかしましい虫の音と自覚のない酔いで伊東は些かひねた感情になっていた。
「それは口説いているとか?」
平素ならまずしないような不躾で嫌みったらしい響きになってしまったが、まぁいいかとすぐに思い直す。近藤が驚き慌てたら夏目漱石の逸話を説明しながら笑ってやろうと考えていた。
だが近藤は動じなかった。なにを考えているのか、じっと見つめてくるので図らずも近藤としばし見つめ合う形になってしまう。気まずい間が空く。伊東が視線を逸らそうとすると、近藤はおもむろに上体を寄せてきた。ずい、と顔を覗き込まれとっさに顎を引く。近藤の瞳が熱っぽく伊東を映している。
「月、綺麗ですね」
「全然!」
文字通り目と鼻の先の、近藤の顔を押しやるべく伊東は声を張り上げた。本当に口説いているなどと言うつもりじゃないだろうな。真剣だったまなざしが悪戯っぽく緩み、何もせずに近藤は体を引いた。上々に酒を傾ける近藤の傍らで、伊東もこれ見よがしなしかめっ面で傾ける。月に照らされた雲が薄墨のように夜空をにじませゆったりと棚引く。声の甘さが妙に耳に残って落ち着かない。
「先生こういう情緒的なの好きかと思ったのになぁ」
口を尖らせながらも近藤は楽しそうだ。
「君が漱石のエピソードを知っていたことに驚きだよ」
「この前ネットで見つけて」
「情緒のかけらもないな」
徳利を差し出され、自分の杯が空になりかけていることに気付く。注がれる酒はいつも伊東が望むよりすこし少ない。
「君に持って回った言い方は似合わないと思うな」
「先生だったらどう訳す?」
I love you.をか?
「なぜ僕がそんな真似を……」
「そう言わずにさァ」
「しない」
もっとぐだぐだ管を巻くかと思いきや、案外近藤は聞き分けがよかった。月を眺めては「死んでもいいわ、てのも情熱的でいいよなぁ」などとこぼしている。猪口を口元に運ぼうとして伊東は手を止めた。浅い水面に波紋が起こり皓々と輝く白色の玉が掻き消えそうに揺らぐ。薄く唇を開き、閉じ、開きかけたとき、
「先生、少しよろしいですか」
襖越しに篠原の声が聞こえた。振り返り腰を浮かしかけた伊東の手を近藤は引くと、無言で立ち上がり部屋の奥に向かった。伊東に背後から射し込んだ暖色の明かりが手元のガラスに反射する。
「先生は今俺とお楽しみ中だから。また後で来なさい」
後方でひそひそと囁かれる優しい声音は夢の中のような浮遊感があり、と同時に強い現実感を呼び寄せた。背中に篠原の視線を感じたが振り返ることが出来なかった。再び伊東の隣に腰を下ろした近藤を見ることも出来ない。
「つくづく考えの読めない男だな、君は。こんな不自然な酒席をまるで大切な時間のように……」
視線を落としたまま伊東は口をつぐんだ。