闇が起つ

 しん、と静まり返った夜道に近藤の足音が響く。月も星も出ていない夜は暗く、屯所へ向かう足も思わず速まる。ひたひたと帰り急ぐ近藤の足が、ふと速度を緩めた。 路よりもさらに暗い路地から白い煙が細く漂い出ている。一目で煙草と判るそれは近藤の視線を誘った。完全に歩みを止め、建物と建物の間の狭い小路を覗き込む。深い闇の中から流れる煙が、ゆらり、と揺れた。
「こんばんは」
 煙から浮き上がるように現れた白い顔に近藤は息を飲んだ。手にした煙管から立ち上る煙が細く揺らいでいる。包帯の巻かれていない右目が、冷たく粘度の高い笑みを形作った。その顔は良く知っている。
「高杉……。俺が真選組局長だって知ってるんだろう」
「だからわざわざ来てやったんだろうが」
「だったら尚更、俺に何の用だ」
 険しい表情の近藤を楽しむように、高杉はくっくっと喉の奥で笑った。
「冷てぇなァ。真選組の局長サマに挨拶しようと思っただけじゃねェか」
 そう言うとさらに一歩、闇の中から姿を現した。品定めするように見上げてくる視線に前身が総毛立つ。近藤の右手が柄に動いた。
 が、抜けない。
「野暮な真似するなよ」
 こんな好い夜に、と高杉は口の端を上げた。高杉の右手が近藤の刀の頭に軽く触れている。それだけで刀はぴくりとも抜けなかった。目の前の男を力ずくで殴り飛ばすことは容易い──と頭の隅で考えたとき、煙草の煙が鼻先をかすめた。唐突に土方の顔が脳裏をよぎる。
 近藤の一瞬の躊躇いを見透かすように高杉は目を細めた。
「随分と煙草がお気に召したようだな」
 再び喉の奥で笑う。
「真選組の局長がそんなにわかりやすいんじゃあ危ねぇなァ」
「どういう意味だよ」
「そこに付け込まれたら、てめェやてめェの大事なモンが危険に晒されちまうかも知れねェってことさ」
 「世の中には悪い奴がいっぱいいるからよォ」と続けた。赤い舌がゆっくりと唇を湿らせていく。薄く笑う高杉から視線が逸らせなかった。月もないこんな夜には本当の闇が訪れるらしい。先も見えないような暗闇の中に高杉の白い顔と、その手が持つ煙管の煙だけがはっきりと近藤の視界に浮かび上がっていた。他には何もない。
──俺は何も見えなくなることが恐いらしい。
 「ああ」とひとり胸の内で呟いた。
 だからこんなにも目が離せなくなるのだ。例えそれが、より深い闇だったとしても。
 そんな自分に耐え切れなくなり、近藤は思わず顔を背けた。視界をちらつく煙が、高杉の吐き出したものと重なり濃さを増す。目が離せなくなる自分が恐ろしくなったのに、目を閉じることに未だにまだ恐怖を感じる。
「あぁあぁ、ダメじゃねぇの」
 嘲笑を含んだ声が夜を静かに響かせた。煙管を指に挟んだままの白い手が、煙を裂くように伸びてきた。煙草の匂いが鼻先をくすぐる。ひやりと近藤左頬に触れた手が強引に視線を合わせてきた。
「眼ェ背けちゃダメだぜェ?いつも光の中にいるてめェも、足元には常に闇があるってこと、忘れないようになあ」
 薄い唇の両端が上がり、押し殺した笑い声が漏れる。刺すような高杉の視線に捕らえられ、呼吸をすることさえままならない。笑い声が黒い空気に溶けていくのと同時に高杉の体もわずかに闇に沈んだ。それと共に白い手が近藤の輪郭をねっとりとなぞりながら離れていく。冷たく感じられた手なのに、離れる手と頬の間に入り込んだ夜風がひどく冷たい。一瞬だけ、そのわずかばかりの体温が名残惜しく思えた。
 次の瞬間、鋭い刺激が首筋に走った。
「痛っ」
 ヒリヒリと熱を持つ首筋に手を当て、目の前の高杉を見やる。歪な笑みを形作る口が咥えている煙管を見て、キセルのガン首を押し当てられたのだと悟った。